2 :名無しさん 25/02/27 22:53 ID:4zXjrlf,l8 (・∀・)イイ!! (0)
大垂水峠の戦い(おおたるみとうげのたたかい)は、天正10年(1582年)初頭に、武蔵国と相模国の国境付近に位置する大垂水峠(現在の東京都八王子市と神奈川県相模原市の境)で行われた戦いである。甲斐武田氏の滅亡が迫る中、北条氏と徳川氏の勢力争いの一環として勃発した。

# 背景
天正10年、織田・徳川連合軍が武田勝頼の甲斐国・信濃国への侵攻を進める中、相模の北条氏政は、武田氏の勢力が衰退するのを見越し、武蔵・相模西部への影響力を強める機会をうかがっていた。一方、徳川家康はすでに武田氏との同盟を破棄し、武田領への進軍を進めていた。

このような状況下で、北条氏は八王子城を拠点とする家臣・北条氏照に命じて、武蔵国南部を確保するよう指示を出した。氏照は、甲斐方面からの侵攻に備えつつ、津久井城の内藤景豊と連携し、大垂水峠の防衛を固めた。

一方、徳川方の鳥居元忠率いる軍勢は、甲斐方面から武蔵南部へ進軍し、武田氏滅亡後の混乱に乗じてこの地域の支配権を確立しようとした。両軍は、大垂水峠をめぐって激突することとなった。


3 :名無しさん 25/02/27 22:54 ID:4zXjrlf,l8 (・∀・)イイ!! (0)
# 合戦の経過
天正10年2月27日(1582年3月21日)、大垂水峠の防備を固めた北条軍は、峠の狭隘な地形を利用し、徳川軍の進軍を妨害した。鳥居元忠率いる徳川軍は、甲斐から武蔵へと抜ける重要な街道を確保するため、峠を越えようと試みたが、北条軍の伏兵により度々撃退された。特に、夜襲を仕掛けた北条方の軍勢が、徳川軍の後方を襲撃したことで、元忠はやむなく一時撤退を余儀なくされた。

しかし、元忠はすぐに態勢を立て直し、徳川家の援軍を要請するとともに、津久井城の内藤勢が本隊と合流する前に各個撃破する策を立てた。翌2月28日(3月22日)、徳川軍は峠の北側に回り込み、険しい山道を利用して北条軍の側面を突いた。この奇襲により、北条軍の陣形は崩れ、氏照の配下である横地吉信らが討死した。

# 戦後の影響
大垂水峠の戦いは、局地戦としては大きな被害を伴ったが、決定的な勝敗がつかぬまま終結した。その後、織田・徳川連合軍による武田氏の滅亡が決定的となると、北条氏は甲斐・信濃への侵攻を進め、徳川氏との緊張が高まっていく。

最終的に、天正壬午の乱を経て、北条氏と徳川氏の間で和睦が成立するが、大垂水峠の戦いは両勢力が武蔵南部の支配権をめぐって争う先駆けとなったとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%81%AF%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%99


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