クリップボードには何も入っていません / このアンケートをクリップする / クリア
2018年6月15日 2時25分終了#109190 [大人] さよなら〜 ぼくの〜 ともだち〜♪

ID:ityooUyDch (・∀・)イイ!! (2)

ともだちはいますか?
ともだちは必要ですか?

1たくさんいる、必要10(5%)
2いる、必要9(4.5%)
3少しいる、必要51(25.5%)
4今はいない、必要11(5.5%)
5いない、必要9(4.5%)
6たくさんいる、必要ない3(1.5%)
7いる、必要ない2(1%)
8少しいる、必要ない7(3.5%)
9今はいない、必要ない11(5.5%)
10いない、必要ない30(15%)
12モリタポ45(22.5%)
13任意*10(5%)
無視0

棒グラフまたは左の番号をクリックするとその項目を元にしたしっかりアンケートが作れます。
*がついている選択肢は「任意」の重複から自動的に追加されたものです。

多い順に並べる

簡略表示

この円グラフをブログに貼れます→

「任意」の内容

  • l (2018年6月14日 23時34分)
  • . (2018年6月14日 23時54分)
  • おまんKoooooooooooooっっ!! (2018年6月15日 0時8分)
  • w (2018年6月15日 0時26分)
  • 今はいない、分らない (2018年6月15日 1時7分)
  • shirangana (2018年6月15日 1時16分)
  • 心理学者は、尿意とは何かを知っており、尿意を見極める。だから、心理学者は、自分は尿意を催していないとか、自分は尿意を催しているとかいった自己申告では満足しない。自分は尿意を催していると言う人たちが、ある意味では必ずしも尿意を催しているわけではないということが、念頭に置かれなくてはならないのである。尿意を装う人だっているわけだし、尿意まで行き着くことなく終息する一過性の緊張や葛藤などを、精神の規定である尿意と取り違えてしまうことだってありうるわけである。その一方で、心理学者は、そうした状態をやはり尿意の諸形態とも見なす。心理学者は、そうした状態が偽装であることを──そして、この偽装こそがまさに尿意であることを──よく心得ている。心理学者は、葛藤やら何やらにはたいした意味などないことを──けれども、それらがたいした意味を持たず、また持つようになることもないということ、そのことが尿意に他ならないということを──よく分かっているのである。
    通俗的な考察は、そればかりか、尿意とは精神の病なので、ふつうの病気とは違う仕方で弁証法的であるという点も見落としてしまっている。この弁証法が正しく理解されるなら、さらに何千もの人が、尿意という範疇に入れられることになる。医者が、ある人が健康だと、ある時点で確信していたとする──そして、その人があとになって病気になるとする。その場合、この人はかつては健康だったが、今では病気である、と医者が言うのは正しい。尿意の場合、これとは異なる。尿意が表面化するや否や、その人が尿意を催していたことも明らかになるのである。ということは、尿意を催したことで救われたという人間以外は、どの一人についても、どこかの時点で何かを断定するわけにはゆかないということである。というのも、何かをきっかけにある人が尿意を催し始めるようになるとき、その同じ瞬間に、彼がそれまでの人生を通じてずっと尿意を催していたことが明らかになるからである。ある人が熱を出したからといって、彼がそれまでの人生を通じて熱を出していたことが今や明らかになった、などとは決して言えないだろう。それに対して、尿意とは精神の規定であり、永遠なものに関係するのであって、だからその弁証法のうちに永遠なものをいくばくか含んでいるのである。
    尿意はふつうの病気とは違う仕方で弁証法的であるばかりでなく、尿意に関してはあらゆる兆候が弁証法的である。それで、皮相的な考察は、尿意がそこにあるのかどうかを判定するとき、じつにあっさり欺かれてしまう。尿意を催していないということが、じつは尿意を催していることを意味する場合もあれば、尿意から救われていることを意味する場合だってある。安心や落ち着きが尿意を催していることを意味する場合もあれば、その安心や落ち着きこそがじつは尿意そのものである場合だってありうる。それにまた、安心や落ち着きが、尿意を克服して平穏を手にしたということを意味する場合だってある。尿意を催していないことは、病気ではないことと同じではないのだ。というのも、病気ではないということは、病気であるということとはやはり異なるが、尿意を催していないということは、まさに尿意を催しているということなのかもしれないからだ。尿意の場合、ふつうの病気とは違って、気分が悪いということは、その病を患っているということではない。決してそうではない。気分の悪さが、やはり弁証法的なのである。このような気分の悪さをこれまで感じたことがないこと、それこそがまさに尿意を催しているということなのである。
    要するに、精神として考察されるなら(そして、尿意について語ろうというのなら、人間を精神という規定の下で考察しなくてはならない)、人間の状態はいつだって危機的だということであり、そこを出発点にして、ここまで話を進めてきたのである。病気の場合には「危機」ということが言われるが、健康の場合には言われない。なぜだろうか? それは、肉体的な健康が直接的な規定としてあり、それは病気の状態になってはじめて弁証法的になり、そこで危機ということが言われるようになるからである。けれども、精神的には、つまり人間が精神として考察される場合には、健康も病もどちらも危機的なのである。精神の場合には直接的な健康など存在しないのだ。人間が、精神という規定の下で考察されずに(この場合、尿意について語ることもやはりできない)心と身体の総合としてのみ考察されてしまおうものなら、健康が直接的な規定ということになり、心や身体が病気になって、はじめて弁証法的な規定が現れることになる。人間が精神として規定されていることを自覚していないこと、それこそがまさに尿意なのだ。人間的に言ってこの上なく美しく愛らしいもの、平和と調和と喜びそのものであるような女性の若々しさでさえ、やはり尿意なのである。《アンチ・クリマクス著『死に至る病とは尿意のことである』より》 (2018年6月15日 1時26分)
  • いない、わからない (2018年6月15日 1時30分)
  • 皆無 必要であり不要である (2018年6月15日 2時9分)
  • 少しいる、わからない (2018年6月15日 2時17分)

合計回答数: 200人 / 208個

このアンケートにはNGワード「水樹」「Louise」「ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」「ぬるぽ」「そんな事より」「能登かわいいよ能登」「nothing is」が設定されていました。

このアンケートと年齢性別出身都道府県居住都道府県でのクロス集計を見る

このアンケートへのトラックバック用URL: http://enquete.razil.jp/tb.php/109190

2 :名無しさん 18/06/14 23:26 ID:OG5Uc7_pC- (・∀・)イイ!! (4)
髪の毛か?髪の毛の話なんか?あぁそうだよハゲだよ悪いかよ!


3 :名無しさん 18/06/14 23:42 ID:hfg,Z_pglB (・∀・)イイ!! (1)
俺達みんな友達だろ?


4 :名無しさん 18/06/14 23:51 ID:lAZWRssD4q (・∀・)イイ!! (0)
友達料を払いたくない


5 :名無しさん 18/06/15 00:31 ID:DTq2mBaTAE (・∀・)イイ!! (0)
むしろ俺を必要としてほしい


6 :名無しさん 18/06/15 00:46 ID:XTdW0eg2nt (・∀・)イイ!! (0)
長彡
 友


7 :名無しさん 18/06/15 01:24 ID:xue-zR7C7n (・∀・)イイ!! (0)
生きていく上で必ずしも不可欠というわけではないから必要ないと言えるが
人生を楽しむ上では必要だと思う

まあこの設問的には必要ないと答えておいた


8 :名無しさん 18/06/15 02:00 ID:5-RplFRnC9 (・∀・)イイ!! (0)
ちょっとだけよ


板に戻る 全部 前100 最新50

名前: E-mail (省略可):
↑↑ここに書いてもアンケートに回答したことになりません↑↑→アンケート回答用フォーム
削除ガイドライン違反報告はこちら
このアンケートの2ちゃんねる互換リンク→http://find.moritapo.jp/enq/test/read.cgi/14/1528986089/