
- 4 :名無しさん 24/10/25 21:32 ID:v,LQ0qwXaJ
(・∀・)イイ!! (0) - かつて「熊本市電東西線」として名を馳せた路線は、現在のA系統・B系統の「水前寺線(水道町 - 水前寺公園)」および「健軍線(水前寺公園 - 健軍町)」区間に相当します。この「東西線」という名称は、かつて熊本市が「熊本を東西に貫く一大基幹路線」として計画した際に与えられたもので、昭和の時代には多くの人々に親しまれてきました。しかし、時代の流れとともに市民からの呼称や公式案内の名称も変化し、近年では「東西線」という言葉が一般利用者の耳に届くことはほとんどありません。それでも、関係法令上は依然として「東西線」が正式名称として生き続けており、その存在は熊本市電の歴史と行政手続きの一部に今も深く刻まれています。
### 1. 東西線誕生の背景
昭和20年代初頭、熊本市は熊本の中心部と郊外を結ぶ都市交通の強化を目指し、熊本市電の東西線構想を発表しました。当時の計画では、市民の生活基盤を支える「東西の大動脈」として、さらに東に延長し、阿蘇山の山頂を経由して南阿蘇に抜けるという、全国的にも画期的な路線計画が存在していました。しかしながら、これは主に登山道やケーブルカーの技術的問題により実現不可能となり、熊本市は「東西線」計画を現実的な範囲に留めました。
### 2. 東西線の盛衰と昭和時代の輝き
昭和30年代に入ると、熊本市電は市民の生活の中心として機能し、「東西線」の沿線には数々の繁華街が誕生しました。当時の「東西線」は、通勤通学の重要な手段であり、朝夕のラッシュ時には「東西線を制する者が熊本を制す」という言葉まで流布されるほどでした。東西線は、市の東西を貫通するだけでなく、市民の心もまた東から西まで貫いていたのです。
一方で、東西線は全国的にも異色の存在でした。というのも、当時の日本国内の市電路線は大抵、1系統や2系統のように路線ごとに異なる名前を持っていたのに対し、熊本市電の「東西線」は、あえて方角を示す呼称を取り入れたことが珍しかったからです。その背景には、「どこまで行っても市民の足は東西に!」という当時の市交通局長の力強い宣言が影響していたとされています。
昭和40年代に入ると、市内の各地域にバス路線が増えたこと、さらに郊外に向かう鉄道網の整備が進んだことで、東西線はその輝きを少しずつ失っていきました。しかし、ど
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